先日、サツキさんの新曲「オブソミート」がリリースされましたね。
今回もなかなか虚無的でアイロニックな歌詞がちりばめられてましたね~!
これを受けてコメント欄にはサツキさんの胸中を察し、
ブルーな感想を残している方がたくさん見受けられたのですが…
決してドロドロとした諦観をつづっただけの曲じゃない!
というのが私の考えです。
もしこの曲を聴いて、
「サツキさん…こんな苦悩を…」
と心をえぐられてしまっていたら、この記事は良い感じの避難所になるのではと思ってます。
このオブソミートという曲は、
メズマライザーが世界的にヒットしたあとの悩みや葛藤を、現代の潮流と重ねて表現しているのですが、
具体的にどんな苦悩が提示され、それをどうサツキさんが昇華しているのかを
これから見ていこうと思います。
というわけでまずは曲の歌詞の考察から参りましょう!
歌詞の考察
とある一品を境に
突如、担がれ方だけ、三ツ星。
そんで、分不相応な店舗を構えて
勝手が分からず、撃沈。
=突如メズマライザーで爆発的な話題を呼ぶも、
MVによるところが大きかったのもあり
そこには苦悩があった。
正味、礼儀作法や、
テーブルマナーとか、
なんのこっちゃでして。
加えて、勝手な推知で、
形成されていく、
パブリック・イメージ。
=正直にいうと、妄言まがいの考察をまきちらすような礼節をわきまえない視聴者もいた。
しかもそんななか自分のイメージまで一人歩きを始める始末。
シェフ(=作り手)の格好をしたミクテトが料理を食べているのもあって、
はじめは「礼儀作法や、テーブルマナーとか、なんのこっちゃ」は
「急に有名になってもどう振る舞えばいいか心得ていない」みたいな意味合いかと思ってましたが
おそらく視聴者のことでしょうね。
嗚呼!ただただ、
話題性だけが先行していて
碌に咀嚼せず嚥下か。
実は、見かけの映えだけ
意識していれば、
味はどうだっていいらしい。
=話題になっているからとりえあず聴いてみた、みたいな人も多いのでは?
MVという体裁だけ派手にしておけば曲という中身までは問われないらしい。
必死こき、拵えたメニューも、
伝わらなけりゃ、無意味と同義?
兎角、嘲笑塗れのレビューサイトでは
流言飛語って、やんなっちゃう!
=作りこんだ歌詞の意味も伝わらないと意味がない?
コメント欄やSNSでは逆張って馬鹿にする声や、根も葉もない考察ばかりで嫌になる
続々と現る新フード
全量を食べてちゃ追いつけない;;
一片食べたら、後はもう、
適当に遊んでしまえ。
=次々と流行りの曲はでてくるけれど、全部を堪能するなんてできない
ちょっと聴くだけで各々が好きに楽しんでしまう
歌ってみたやMADなど、二次創作したり
考察の書きこみをしたり…ってことでしょうね。
流行りの曲、というよりは流行りもの全般を指しているようにも捉えられます。
塞がった声は影も無く、
ただ、給仕の枷になり得るの。
並々ならぬ思いとか、
それは、塵も同然。
=メズマライザーに対する勝手な憶測をつづった書き込みや投稿は
もはやどれがどこにあったか思い出せないけど、
それは作曲者である私の手を止めてしまうこともある。
そういうとき、自分の創作の源はちっぽけなものになってしまう。
ネクストメズマライザーを欲している声に気圧されて
彼らに迎合するために自分がほんとうに作りたかったものが作れなくなる…
みたいな現象を歌っているのかなと感じました。
もしくは「並々ならぬ思い」=「メズマライザーにこめたメッセージ」かもしれません
偏食傾向の神様に、
また同じ味を捧ぐ奴隷。
「あなたに満足してもらえたなら
私の気持ちはどうでもいいですわ!」
=それゆえ私は、次のメズマライザーを求める視聴者にまた同じテイストの楽曲を提供するのだ。
視聴者の満足を優先しないと!という気持ちに支配されてしまっているから。
新たな食事が出る度、
何処からか湧いてくる、ノスタルジー なんか、
毎年いつも同じムーブだね。
それこそ、お腹がいっぱい。
=流行りの曲が出てくるたびになぜか既視感をおぼえるのは、
毎年おなじように流行っては廃れていくから。
そういうのはもうたくさんだ。
もう、主観と、客観が、
ごっちゃになっている
カスのサラダボウル?
はたまた、事実に反する
確証バイアスか?
=メズマライザーに対する自己評価
(楽曲に渾身のメッセージを込めてやったぞ!)に
視聴者たちの客観的評価
(意図しない考察、MVばかりほめる声)が入り混じって、
自分の創作の方向性が定まっていないのではないか。
いや、ほんとうに視聴者の評価は
客観的といえるだろうか?
人はみな
自分が見たいように見て、
自分が聴きたいように聴いて、
自分がしたいように考察しているにすぎないのに?…①
or
=メズマライザーに対する自己評価(〃)に視聴者たちの客観的評価(〃)が入り混じって、
自分の創作の方向性が定まらない?
それとも、身勝手な考察やMVの良さに言及する声が多くを占めているなかで
自分が楽曲にこめたメッセージに近い解釈や
楽曲そのものを褒めているコメントを
よりどころにして今までのように自分の好きな通りにやっていく?…②
ここめちゃくちゃ難しいですよね。
比喩と抽象的なワードだらけでいかようにも解釈ができてしまいますから。
ここで出てきた言葉を、ひとつひとつ、私がどのように解釈したか確認します。
主観
=サツキさんのメズマライザーに対する評価
客観
=視聴者のメズマライザーに対する評価
サラダボウル
=主観と客観が混ざりつつもそれぞれが形を残している。
それらを矛盾のないよう統合(止揚)することによって形成される、より高次なサツキさんの創作の源
カスのサラダボウル
=こう↑なるはずが、もはやグチャグチャになって作品の方向性が迷子な状態
事実
=自分がメズマライザーに込めたメッセージ…①
楽曲よりMVが大きく評価されている現状…②
確証バイアス
=自分の奇抜な発想を過剰に愛でて育て上げた視聴者によって書きこまれる、曲のメッセージとはかけ離れた考察。
また、はなから歌詞の内容などどうでもよく、派手なMVのみを堪能する視聴者…①
「楽曲<MV」のコメント欄のなかに、楽曲に注目して称賛してくれる声を探してしまうこと…②
①同士を組み合わせたのが先の①の解釈、②同士を組み合わせたのが②の解釈です。
確証バイアスを抱いているのが視聴者としているのが①、サツキさんとしているのが②とも言えます。
どっちかに絞れよ!という声が聞こえてきそうなので、
あえて絞ると②のほうが説得力が高いかな?と思ってます。
根拠は「はたまた」が何をつないでいるかにあります。
①は視聴者の評価が客観的なものか、確証バイアスによって歪んだものかを対比し、
②は自分の創作の源がカスのサラダボウルのようにグチャグチャなのか、
それとも確証バイアスによって自分に都合のいいコメントをよりどころにして
そのままの自分で創作をつづけていくのかを対比しています。
歌詞をもう一度振り返り、①②それぞれのパターンがどこを対比しているか確認します。
「はたまた」で「確証バイアス」とつなぐ対象は「カスのサラダボウル」であったほうが
日本語として自然だよな、という話です。というわけで②が有力かなと。
コメント欄で見つけた、他の説
ちなみに、YouTubeのコメント欄を見ていると、こんな解釈もありました。
スマホからだと見辛いので、直下にコピペします。
「もう、主観と、客観が、ごっちゃになっている カスのサラダボウル?」
主観的な考察をまるでそれが正しく客観的であるかのように語られる。「はたまた、事実に反する 確証バイアスか?」
確証バイアスとは:自分の思い込みに近い情報ばかり目が行き、そうではない情報は軽視してしまうこと 自分に都合のいい考察ばかり目が行き、作者の本当の気持ち(事実)を無視するファン。
この解釈においてはもはや主観・客観の定義から異なっていて、
主観
=視聴者のメズマライザーに対する評価
客観
=完全な第三者である、神の視点によるメズマライザーの評価
なんですね。
(後半部分は私の①の解釈そのままです)
この解釈には、わたしは異を唱えます。
というのも、まず視聴者の考察をカス呼ばわりはいくらなんでも下衆だからです。
他の理由としては、この曲の1番で
並々ならぬ思いとか、それは、塵も同然。
があったと思うのですが、サツキさんはこの塵をわざわざ「ゴミ」と読ませています。
「頭から湧いて出てきたものを直接的な言葉で卑下する」という点で共通しており、
その出どころは「サツキさん」でそろえるのが自然ではないでしょうか。
視聴者に対する皮肉も込めた歌詞ではあるものの、
あくまで婉曲的に伝えるのがこの曲のスタンスだと見ています。
もうひとつの理由としては、この解釈だとやはり「はたまた」の用法として怪しいためです。
「主観と、客観が、ごっちゃになっているカスのサラダボウル」を「視聴者の考察」だとするのであれば、
「確証バイアス」と「カスのサラダボウル」は対比するものではなく
むしろ、確証バイアスが一因となって
主観的な考察を客観的だと勘違い(カスのサラダボウル)して語られてしまっているわけです。
となると、ここの歌詞は
もう、主観と、客観が、
ごっちゃになっている
カスのサラダボウル?
というのも、事実に反する
確証バイアスか?
などとするのが自然です。
@Nikohapi0213 さんをこき下ろしているかのようですが、
自分の明らかに間違っている考察をこの方の考察コメントを見て
「ごもっともだ、そんなわけないな」と訂正する…みたいなことを何度もやってるので
この方にリスペクトを払っていることは断っておきます。
余談:MVの生卵はなに?
ちなみに、ここの歌詞の終わり際、MVではミクとテトが生卵を誤ってげんこつで潰してしまいます。
これなんなんだろう?と思ったのですが
目の前には卵焼きと目玉焼き、あとでオムライスも出てくることを踏まえると
卵料理=作品
生卵=作品のアイデア
の暗喩かなと思いました。
その卵をつぶすことで作品の根本の方向性で悩むようすを表現しているように見えます。
…だいぶ長くなってしまいました。
歌詞の解釈に戻りましょう。
じゃあ、例えば。
数年後には、脚光の主役が
取って代わられているとして、
その時、あなたはそれでも
私の隣に居続けてはくれるのかな。
ここはもう、説明不要ですよね。
難解な歌詞のあとにすかさずストレートな気持ちを分かりやすくぶつけてくれるあたり
リスナーに優しいです。
よく分からない歌詞が続くと理解を放棄して、それこそ飽きちゃいますからね。
流行り廃りの延長線に、
腐り落つ私達が有って。
賞味期限も過ぎずに、
とっとと廃棄で、
「次の注文」って…
=すぐに次の流行りものを求めるこの流れの先で私たちの楽曲は聞き飽きられてしまう。
表現したいものも十分に伝わっていないのに。
メズマライザーでの経験を踏まえて…というよりは、
時代の潮流を捉えた歌詞のように感じました。
主語が私から私達になっているので。
もちろんメズマライザーに焦点を当てても意味が通ると思います。
大前提な、公然の秘密、
嬉々として宣って、何番煎じ?
こうなった以上、もう是非もない。
冷めきっている残飯を召し上がれ。
=このことを誰も言わないけど、本当は誰もが気づいてる。
新しい曲がでるたびにうれしそうに飛びついてを何度繰り返すの?
こうなったらもう手の施しようがない。
とうに流行りのすぎた曲を聴いていって。
ここは個人的にしこりが残ります。
コンテンツの飽食の時代が訪れて、賞味期限が過ぎないままに次のコンテンツを求めるようになったんですよね。
なのに残飯が「冷めきっている」のはなぜ?
まだ温かさを保っているはずなのでは?と。
もしかしたら、時間的にはまだ最近で冷めていないけど
その時々の流行りのコンテンツはどんどん更新されていくから
「流行史」なるものを作るとすでにずいぶん後ろの方に行ってしまっている、という意味でしょうか。
後続狙った功名心
欲張りすぎたって空回り?
変わらず抱いている矜持だけ、
捨てないように。
=次に出す曲もメズマライザーに続くかたちで人気になって欲しいけど、
あまり求めても思うような結果がでないかも。
仮にそうなっても、自分の作曲の能力だけは信じ続けよう。
飽和してしまった供給で、
そのサイクルすらも速くなる
下馬評なんて気にせずに、
好き勝手やろうぜ。
ここもそのままですね。
模造品ばっか食べていりゃ、
そら、同じ味に飽きは来よう。
直に此処いらも、お釈迦になるから、
お好きな加減で、食い散らした後、
お手々を合わせて、ご馳走様でした。
=同じようなテイストの曲ばかり聞いていたら飽きてしまうに決まってる。
メズマライザーに似せたこの曲もしばらくしたら飽きられてしまうから
好きに遊んだらいいんじゃない。
お手々を合わせて~のところはわざわざ幼い言い方なあたりちょっと皮肉っぽいですね。
食い散らかすような人間が礼儀正しく合掌してごちそうさまなんて言いませんから。
(本当は丁重に味わって聴いてほしいんだけどね!)という心の内が見え隠れします。
お疲れ様でした。以上が私の歌詞の解釈となります。
それではこの曲のなかで提示されている苦悩と、
サツキさんがそれに対しどのような答えを出しているのか見ていきます。
刹那の関係
オブソミートでえがかれている苦悩はいうなれば「飽食の時代への諦観」でしょう。
自分の曲のメッセージがまともに受け取られることもないままにすぐに消費され、
次のコンテンツを催促されるか、また別の流行りについていってしまう。
な、なんてむなしいんだろう…と。
これは別にサツキさんに限った話ではなく、時代の流れがそうなってますよね。
最近だとたとえば猫ミームとか、ひき肉くんとか。
どうしてこう消費のサイクルが速くなったのか?を考えてみると、
まず昔はコンテンツそのものの量が少なったのと、
あと不自由さがあったのも大きいと思います。
どういうことかというと、たとえば昔はアイドルを追っかけようと思ったら、
決まった日時に流れるテレビ番組を見るしかなかったじゃないですか。
その時に家にいないといけないうえ、もしかしたらその人は満足に映されないかもしれない。
あと、家族がいたらリモコン争奪戦になるかもしれません。
だからテレビで活躍しているすがたが見れたら「やった!」と喜べたわけです。
でも今やまず録画ができるし、ネットでの見逃し配信もあるし、
スマホやPCで各々の好きなものが見れます。
そのアイドルがYouTubeチャンネルを持っていたら
それこそずっと見続けることが可能です。
となると飽きがはやく来ます。
ひとつひとつの動画もそこまで食い入るようには見ないし、
ふと関連動画に目をやると、他に魅力的な人がわんさか溢れています。
そりゃ目移りして当然ですよね。
くわえて10年代後半から登場したTikTokやYouTube Shortなどがその流れに拍車を掛けました。
これからの時代、ひとつのコンテンツに熱中している時間はどんどんと短くなっていく。
その熱中してくれている刹那において、提供する側はなにができるのか。
この問題にサツキさんはどんな答えを出しているのでしょう。
歌詞の中でそれっぽいのを探すと…
「変わらず抱いている矜持だけ、捨てないように」?
「下馬評なんて気にせずに、好き勝手やろうぜ」?
どちらもクリティカルなものとは言えないようなきがします。
じゃあなんだよ?というと、私は
「楽曲に作曲者のストーリー性を持たせる」
ことだと解釈しています。
この曲はただただ飽食の時代を嘆くのではなく、
メズマライザーを通した実体験をもとに歌詞が書かれていましたよね。
・急に世界的に話題になって、
でもそれはどうやらMVによるところが大きくて、
人気と楽曲への注目の乖離に悩む姿。
・根も葉もない考察やつぎのメズマライザーライクな作品を求める空気のなかに
現代におけるコンテンツの飽和を見てしまい、その流れの大きさに諦観する姿。
・話題になったことによる生みの苦しみ、不安、プレッシャー、それに対する覚悟。
これらが赤裸々にのった歌詞を目の当たりにした視聴者の関心はサツキさんに向きました。
やっぱ爆発的に売れたボカロPはこういう葛藤があるんだなとか、
サツキさんには作りたい曲を作ってほしいとか、
そういったコメントが散見されました。
はたして、この流れはオブソミートのコメント欄で終始するものなのか?
現時点ではこれが最新作なのでなんとも言えませんが、
私は続くんじゃないかなと考えてます。というのも、
「メズマライザーからオブソミートへの流れを受けて、次の曲にはどんな思いを乗せてくるのか?」
「告白した苦悩をどう乗り越えていくのか?」
と、一曲聴いてはいおしまいではなく、
オブソミートという楽曲を聴いた時点で
私たちの頭には次に出す曲への興味を持つギミックが仕込まれたためです。
なぜなら、そこには過去から現在、そして未来へという
作曲者のナマのストーリーが詰まっているから。
さすれば、別のものが流行っても次をリリースしたタイミングで
自分のところに戻ってきてくれるだろう…ということですね。
ギミックを仕込むなんて言い方をすると聞こえが悪いのでもう少しきれいに表現すると…
曲単体で鑑賞するほか、
「複数の曲の中に作曲者の心情の変遷を見出して、重層的に鑑賞する」
そういう新たな楽しみ方を提供しているのが今回のオブソミートではないか、と思うのです。
また、こう言いかえると、楽曲の賞味期限をのばす施策のようにも捉えられますね。
それぞれが独立しているオムニバス形式かと思っていたら、裏に一貫するストーリーがあった…
みたいな小説の楽しみ方に近いでしょうか。
あんまり読まないのでいい例が出せませんが、東野圭吾の「ナミヤ雑貨店の奇蹟」とかはそんな話だった気がします。
そういう作品って特有の気持ちよさがあります。
関係ないと思ってたのに、つながってたのか…!というカタルシス。
ということで、「コンテンツの飽食」という現代の難題に対してサツキさんは歌詞の内容では直接的な回答はせず、
歌詞そのものに自身の体験を織り交ぜることで
作曲者のなりゆきにも視聴者の関心を向けさせる
というかたちで答えを出したのでは、という考察でした。
さて、ここまでオブソミートという曲ばかりに注目してきたので
徐々に「わたしたち」にフォーカスを合わせてみたいと思います。
反転術式
ところで、飽食による弊害がむなしく感じられるのは、
いっときだけ異常なほどに視聴者から「熱」が向けられるからです。
人気の裏で
- 「MVで伸びた曲」と逆張り勢に嘲笑されたり
- 曲のメッセージを蔑ろにされたままキャッチーな部分だけフィーチャーされつづけたり
- 「次のメズマライザーをはやく出して!」と偏食っぷりを押し付けられたり
- 承認欲求に駆られて投稿された見当外れの考察が流布したり
と、さまざまな苦労が歌詞につづられていましたよね。
この曲を聞いたらなおさら
「この手のムーブメントは作者にとって毒だ、慎むべき」
と考えがちです。
…しかし、本当にそうでしょうか?
というのも、
大衆の熱によってサツキさんが火傷を負わなければ、
オブソミートという曲はできなかった
という見方はできないでしょうか。
危険思想だ!!と思いますか?
この世のできごとには陰と陽、プラスとマイナスが常に同居している、という考えかたです。
ある角度から見ればマイナスでも、べつの角度からみればプラスになりうるのです。
「火傷した…なんでこんな目に…」
とマイナスに捉えるのが普通の価値観。
でもサツキさんはそれを
「せっかくだから火傷の傷痕をみなに見せてやるか」
という価値観に反転させました。
より高い次元でものごとを見ることで、火傷をマイナスからプラスのできごとに再定義したわけです。
こういうマイナス→プラスへの反転はいろいろなところに見られます。
たとえば、進撃の巨人の諌山創先生。
進撃の巨人に見る反転
子供のころ、諌山先生は自分の部屋でこっそり描き進めていたマンガの原稿を
知らぬ間に部屋に入っていた父親に見られたのだそうです。
それを見て父親はなんと
「お前は漫画家にはなれん」
と言ったそうです。(ひえ~)
さらに情熱大陸のインタビューでは進撃の巨人について
「絵が下手、読みづらい」
「ゴーストライターみたいな人がいるのかと思ったけど、
めっきが剝がれないからそれはなかったみたいですよ」
と回答していました。
(アーカイブはもう存在しないっぽいですが、こちらのブログに文字起こしがあったので貼っておきます)
https://ameblo.jp/voyage011/entry-12420147820.html
また、諌山先生の住んでいたところは周囲を山に囲まれた閉塞的な集落でした。
一望できる高台にのぼっては、ここから出たいと思っていたそうです。
これ、まんま進撃の巨人の世界観じゃないですか?
いつ壊されるかもわからない壁の中で暮らし、
外からの巨人の襲来におびえる…という。
もし都会に住んでいて、親も思いやりの深い人物だったら
このような作品は生まれなかったのではないでしょうか。
これもひとつ上の次元から見ると、諌山先生の父親は「広義の愛」を注いでいたといえます。
非人情から愛情への反転ですね。
まあ諌山先生は大物すぎてピンとこないと思うので、次はもっと身近な例でいきましょう。
毒親を反転すると…?
諌山先生の父親が若干毒親っぽかったので、
毒親をテーマにしてみましょう。
たとえば、親がストレスのはけ口をこどもに求めてしまうような人だったら、
こどもはどういう性格になるでしょうか?
おそらく、「今は機嫌わるくないかな」と、常日頃から親の顔色をうかがうようになるでしょう。
怒られないのが第一で、少しでもギスギスを感じれば先回りして対処する。
そんな、人の機微に過剰に敏感な人間になると思われます。
そういう人の話を聞いたときに、ついつい「なんてかわいそうに」と思ってしまいがちですが、
これも本当にかわいそうなのか、と私は問いたいのです。
親のイライラをもろに受けて大きくなりすぎた感受性を、
広義の愛の賜物として考えられることはできないだろうか
ということです。
感受性の強い人は、他人の心情をくみとることに長けていると言いかえられます。
このブログではよく言っていることなのですが、人間は言語化できない非意識領域が9割以上を占めています。
また頭では言語化できていても口にはできない状況もあることを踏まえると、
人の本音はしばしば発する言葉ではなく、
顔のパーツの繊細な動きなど、微妙な所作に現れるといえます。
たとえば眉を動かす筋肉はふだんは「不随意筋」です。
これは何かというと「よっぽど強く意識しないと無意識に動く筋肉」です。
強く感心したり、驚いたりしたときは勝手に眉がピン!と上がるのです。
これは裏を返すと、口では「へぇ~!すごい!」と言っていても、眉がピクリともしていなかったら
ほんとはなんとも思ってない…ということになります。
こういう非言語情報を、人の顔色をうかがう人は敏感にキャッチして、
相手の本音をひっそりと受け取るのです。
そして、そういう人がひとたび口を開くと、周りは驚かされます。
「うっすらと思ってただけのことなのに、よく分かったな」とか、
「俺らの気持ちの解像度高すぎだろ」とかいう風に。
最近の例だと、Xの「しごできジャイアン」とかがそうでしょうか。
あそこまで共感を集められるのは抜群の感受性がなせる業だと思ってます。
あんまりXは見ないのでちょっとだけ私の趣味を出させてもらうと…
YouTubeに「FPSgamer201」というゆっくり実況者がいるのですが、
その人も同じタイプの人間だといえます。
普段は狂気にまみれたネタ動画を投稿していて、それが非常に子供たちに人気なのですが、
ときおり他人とのかかわりあいの中で疲弊しきったリアルな自分をさらけ出した陰鬱な動画を投稿されています。
そしてそれもまた視聴者の共感を集めているんですよね。
あと、この方は「さすがにだんだんこのくだり飽きてきたな~」というタイミングで
的確に動画内のキャラクターにツッコませるのがうまいです。
「ここでお前らは飽きるよな、分かってるぞ」と、視聴者の心を見透かして、寄り添ってくるかのよう。
これができると、面白さを失いつつあったくだりが面白さを取り戻します。
余談になりますが、たとえば、皆の前でスベったときに
「ここ、笑うとこですよ」というと、皆との溝が深くなってさらにスベるけど
「…と、今スベりましたけども」というとちょっと面白いじゃないですか。
見ている人の心に寄り添って、一体となってくれると
「あ、こっちの気持ちわかってくれてるんだ」と安心して、結果笑えるんですよね。
…いやいや、ジャイアンだかFPSだか知らないけどさ、
この人たちが「毒親」育ちである証拠がないじゃん!と思われるかもしれませんが、
私が伝えたいのは他人の感情をくみ取るのが上手いという長所は
それだけとんでもないポテンシャルを秘めている、ということです。
(しごできジャイアンは1ヶ月ちょっとの100ポストでフォロワー44万人、
FPSgamer201さんは登録者34万人とゆっくり実況界隈ではトップクラスです)
なので、
「わたしはいつも他人の顔色をうかがってばかりで…」というあなた!
もっとそんな自分を認めて、誇ってあげてもいいのではないでしょうか。
もう顔色をうかがうのやめよう…ではなく、
短所だと思ってたものを長所と再定義し、
価値観の反転術式を使ってみないか!?
という私からの提案でした。
おわりに
世界的にヒットしたメズマライザーでしたが、
光があればもちろん闇もありました。
その闇に飲まれるのではなく、一つ上の次元で光と闇を統合させた作品が
今回のオブソミートといえるのではないでしょうか。
次回作にも期待しております。
やっぱり「好き勝手やろうぜ」な作品を出してくるのでしょうか?
これほんとにメズマライザーの作者か?と大衆に言われるような楽曲を放ってくるかもしれません。
そうではないかもしれません。
いずれにせよ、次回作のテイストが今から気になって仕方ありません。
それではここまで読んでいただき、ありがとうございました。
分かりにくいところなどあればコメントいただけるとこちらも楽しいです。
自前の考察も大歓迎です!
そういえばこの記事、MVにはほとんど触れてませんからね。
まあ、亞北ネル関連のムーブメントとか
全然知らなかったのでろくに触れられなかっただけなんですけども。
そこらへんの情報・考察を持ってきてくれる人がいたら、個人的にうれしいです。
こういうレビュー・考察記事はまた書いていくと思うので、
読んでもらえるとありがたいです。
あ、よければ他の記事も読んでみてください。
こういうノリで書いてるので、ここまで読んでくれたあなたならきっと気に入ってくれるはず。
それでは!
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